昭和四十六年十一月五日 朝の御理解
御理解第三十六節「日本国中のあらゆる神を、みな信心するというが、それはあまりの信心じゃ。人にものを頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談にくれて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる」
例えば、これは人間同士の場合であっても、一つのことをあの人にも頼み、この人にも頼んでおくということは、いかにもその願いが早く叶うように、願いが叶うような気が致しますね。誰にも頼んどく、かれにも頼んどく。成程それは、「あなた一人に頼んでおきます」と言いながら、五人も六人にもお願いするから、自分に頼まれておるからと思うて、その人が力を入れるか知れませんけれども、神様はそういうごまかしがきかんのですからね。
まあ人間の場合でもそうです。あの人は自分一人に頼んであると思いよったら、あの人にも頼んであったばいのと思うたらもういけませんですね、わかったら。わからないなら五人は十人、十人は二十人に頼んだ方がそれだけ良いか知れませんけれども、こと神様となるとそんなわけには参りませんですね。人間同士のようなわけには参りません。
本当に一心ということは神様を動かすというかね、いわゆる一心を出せばすぐおかげが受けられるという程しですから。一心ということが如何に有難いことか、又一心を出さなければならないかという。それとてもやはり神様がね、本当に任して大事ないか、任して本当に働いて下さるかということをね、信じなければやはり任せられません。お願いしてあるけれどもということになる。仲々これは神様一心にということは仲々難しいことです。
一心を出せばすぐにおかげが頂かれるということはようわかるような気が致します。成程、本当に一心を出したら、すぐにおかげが受けられるだろうと思います。私共は本当に神様一心、金光様一心と言うておるようであっても、まだ一心になっていない証拠に、すぐにおかげが受けられん。それ程しに神様が信じられ、本当に信じておると言うて、信じられていない印だと思うて、いよいよ一心にお任せ出来るというか、一心にお願い出来れる信心を頂きたいものだと思います。
そこで、神様を信ずるということなんです。神様を信じたい信じたいとこう思う。神様もまた、「氏子、信心しておかげを受けてくれよ」と言うておられることは、どうぞ私を信じてくれよということです。あれは、「氏子、信心しておかげを受けてくれよ」と。
そこで、私共御取次頂いておかげを頂くということは、皆さんが信じておられるよりも、先生の方が信じてござる。神様は、先生よりも金光大神はもう絶対信であるということはまあ、天地金乃神と同根と言われることでございますから、私共その生神金光大神に帰依をするということは、やはり金光大神を信ずるということなのです。
それを厳密に信じておる、帰依しておるというてもです、それは本当に、私の場合でもそうですけれども、総代さん方に私はいつも言うのですけれども、「私は一つもあんた方に頼んではおらんよ。縋ってはおらんよ」といったようなことを言うのです。私が縋るところは此方一身しかないのだ。神様以外にないのだ。
まあ例えて言うと、今度の若先生の結婚式の時に当たってもそうです。それは委員会が出来て、委員長、久富委員長と、久富正義さんがそれを承って御用頂いておる。だからそれでいいようでありますけれども、やはり縋っておらんようであるけれども、あんたが居らんと困るよとか、まあそういう意味のことを言ってるわけです。ということは私は正義さんに縋っていることになるし、厳密にいうと神様が私を信じておるように言いながら、正義さんを信じておるのだというようなことにもなりかねないのであります。
神様を信じておればです、成る程それは組織があったり、また一つのことがなされるためにいろんな分担分担を承りますから、責任者の方達にお願いをする。もうお願いしてあるからよいようなものだけれども、してあるならしてあるだけでよいはずなんです。ところがどっこい、私が、言うならば心許ないものを感じるところから、こんどの結婚式の場合なら、いろいろと私が正義さんに縋っておる事実をぶちまけておるわけなんです。
ところが不思議にその正義さん自身が、「若先生の結婚式のことについて、どうか万事よろしくお願いします」と最近は毎日お取次をいただいとります。そうするとそこにはですね、お取次の働きをね、信じることが出来る。
これは私は昔から言うてましたけれども、例えば今日お月次祭ならお月次祭だという時、私はどっちかというと、きちっとした方が好きなんです。だから神饌室方へ朝からお供えが集まって来るのを先生達がこうして、神饌をしたりお掃除をしたり、そのための準備をいろいろしておるのです。ですから、その準備が段々進められておるであろうか、神饌が私の思うようにきちっと出来ておるだろうかと思うわけなのです。ですから、何回となく神饌室を覗いてみて、こう、見るわけなのです。
ところが不思議に、この責任者の久富先生なら久富先生が、「今日はお月次祭でございますから、万事万端に御都合お繰り合わせを下さいまして、とりわけ神饌の方は御都合お繰り合わせ下さいませ」というお願いをなさいますとですね、不思議に心が定まる。その心が定まるということが神様を信じるということだと私は思うのですよね。
一心にお願いしとりますと言うて、何回も何回も神饌室を覗いておるようなことであっては、未だ私は一心を定めておることではないと。これはみなさんの場合も同じこと。一つのことをお願いする、しかもお取次を頂いてのお願いである。だから願うておることが未だ不安である。お願いしとるばってんどうであろうかといったような動きになっておる間は、まだ自分にはおかげが受けられんなあということを先ず知らなければいけません。
一心と定めい、一心と定めいということ。心というたら、「草木でも心というたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すと」と仰る。先ずこの一心を出すこと。今日はその一心を出すことを、厳密に言えばそうであるということなんです。もうこれは限りなく信心の稽古させて頂いて、そこんところをいよいよ極めて行く、本当なものに。有難いことである。
二、三日前でした。お風呂に高橋さんと二人で入っておったんですよ。私は湯船の中にこうやってつかってる。高橋さんは上がって風呂渕につかまって、私方の風呂は扇形になってましてね、私が扇でいうならば要のところにつかって、こうやって深いところに入っているのです。ちょうど真向かえに高橋さんが上がられて、風呂の渕をこうつかまえながら話される。私に話される。話されるというかまあ、お取次を頂かれておるのでございましょうね、言うならば。
親先生、今日は本店の方の千代町の方も、毎日税金、税金で、税金のことで税務署からやって来ている。自分が居りませんもんだから、いつも居留守を使っておるようで悪いわけなんですよね。それから長崎の方へ今度支店が出来ます。支店の方もまもなく開店という運びになっておりますから、今日あたり特に行って見なければいけないと思うのですけれども、こちらのご用が毎日、毎日、とにかく御用し出しなさると帰られんわけです。
次々と「高橋さん、あれはどうですか」「あれはどうなっておりますか」と、皆から頼まれたり言われたりするものですから、とにかく帰られんわけです。車でちょっとそこまで行こうとすると、 「すみません、送って下さい」と結局終日御用を頂かれる、というようなことが、まあ毎日続いておるわけです。
久留米の方にも支店があります。その支店の方は何か、コンピューター何とか言うておられましたが、どうしてもあちらの店主達の集まりがありましてから話し合いがある。まあそれこそ卍巴になって、実を言うたらあれも心配になり、これも心配になるというお届け。一口お取次頂いとるけれども、やはりちょっと不安になると言うわけなんですね。
しかし本当に、信心ちゃ有難いことと思います。あれだけ大きなお商売をなさっておられるのですから。しかも沢山のお店をあちらにもこちらにも持っておられるのですから。とりわけ今言うように久留米支店、長崎支店、本店の方、まだその他にいくらも店がありますけれども。そのことは別として、やはり店主であるところの高橋さんがお出られなければ、向こうの方でも困るし、自分も安心がいかんようなことがあるのですですけれども。
それもちょうど二三日前でした。そういうことをお届けになりましたら、そういうことは「もう飲んでかかれ」というようなお知らせを頂きました。
私は神様に、今日私が申します、「一心を出せば」と仰る、その一心を出させるための稽古を神様がさせておられるように思います。そしてその結果において、成程不安であった。どうなるであろうかと思うておった。けれども、御用一筋に打ち込ませて頂いておったら、成程「神の用を氏子が足せば、氏子の用は神が足してやる」と仰られるが、本店の方も、支店の方も、成程私が行っておったよりもおかげが受けられるといったような事実がです、その後に表れて参りますとです、いよいよ神様を信じる力は生まれて来るわけなのです。
そういうことが繰り返し、高橋さんの場合はもう十何年間そういう体験はいつも頂いとられるわけなんだけれども、やはり不安である。だから仲々、一心がそこに定まるということは難しいことです。あの時は成程無事におかげは受けたけれども、この度の場合はどのようなおかげになるだろうかと、やはり不安が残るわけです。しかも今度の場合は、本店の方の税金の問題。長崎支店の方は、やはり行っても見なければおさまるまいと思うようなことがあるのだけど。電話はかかって来る、どうしたらよいかとかかって来るけれども。昨日なんかでも居られない内に、本店の方から、支店の方から電話がかかって来るのですよ。それがちょうど出られた後であったりするわけですね。
けども、私がその時に思うのは、居られなかった方がおかげだなと私は思うのですけど。そのような中にあって、信心の稽古をしとられる。どういう稽古かというと、ギリギリのところ、神様に一心に定めさせて頂けれる心をつくる稽古をしとられるわけであります。言うならば神様を信ずる稽古を一生懸命、神様がさせておられるのです。
だから、そういう成程税金のことも、長崎支店のことも、久留米支店のことも、気になろうけれども、そういうことは呑んでかかるということは、大きな心ということなんです。よしそのために、例えば税金なら税金の方が沢山かかるようなことになって来ても、そのために例えば順調に進んで来ておる長崎の方の開店についてのことの、そのことが何日か遅れることがあるにしましても、そういうことは呑んで、呑んでかかれということは、いわゆる大きゅうなれ、大きゅうなれということなのですよ言わば。
だから「神信心もこの一心を出すことは」と言うとです。私は金光様一心と言うておっても、そういう不安があったり焦燥があったり、事実神様にお縋りしながら、あれにも頼み、これにも頼みというように、不安のためにうろうろしておるようでは、一心に頼んでおることにはならないということ。
それでも、どうもあちらも、こちらも不安で心にひっかかっておられますから、「どうかズーから打ち込めんような気がする」と言うてもらしてられ、まあ、それでよいのです、稽古中だから。だからそういう細々の気持ちをです、ついつい風呂の中に漏らしたり、お届けなりしておられる訳なのです。
私は湯船の中につかっておる。高橋さんは上がって風呂の渕にこうつかまえながら、実は親先生、とそのお店のことをいろいろ、実は今日こうこう言うて来ています。電話かかって来ていますというようなことを私にお届けしとられるのです。で、私はそれをお届けと思いますから、風呂の内で、ああそうね、そうねと、目をつぶってから湯船につかりながら、こうやってしておったら、ちょうど私の前に居られる。直立、裸ですからね。そのちょうど高橋さんがですよね、ちょうど真ん前にこうやっておられる。私は湯船につかっておる。高橋さんは前に居られる。ちょうどまるきり、肉眼で見るように御心眼を頂くのです。こちらを向いておられる高橋さんのへそが一寸ばかり上の方に付いとる。面白い、後で二人で話しました。ほんに神様ちゅうお方はどういうお方。「毎日のことだけど、不思議で、不思議でたまらん」と言うて、その時話したことでした。
それでその時、私なんか、早く上がらなきゃならん、後がつかえとったんですよ。後、待っとったらしい。けど、そこでまた一条の御理解を頂いとりましたので、暇がいったような訳でございましたけど、どういうことだろう。肉眼で見ると、へそはやっぱり当たり前のところに付いとる。目をつぶると、ちょっとばかり上の方へ付いとる、これは心眼。「高橋さん、へその下に力を入れるという言葉があったろうか」と、私が言いました。臍下丹田ですかね。
お茶なんかする時、茶釜を持つ時には、へその下に、下腹に力を入れて茶釜を使えと言われております。本店のことが心配になる、久留米支店のことも、長崎支店のことも気になる。それでも、ここ何日間か行かずに合楽のことに御用を頂いておる。電話がかかって来ればちょっと行って見たいような不安な心も起こる。いやもう神様にお願いしてあるのだから、神様の御用をしておるのだと思わせて頂きながら、又、過去の信心を振り返って見て、「神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる」ということは、成程嘘じゃないな、本当だなと、体験を次々と十何年頂いて来ておるけど、やはり不安になる。その時は、そこで下腹に力を入れろと、へその下にしっかり力を入れろと、こういうことなのである。
あんた、昨日、一昨日だかね、呑んでかかれと頂いとったろうがね、と。そのことよと、風呂の中にまで、私にそういうことを言うことは要らん。けど不安の余り言いよると、こうなのである。まあ、不安という程のことではないけどね。けど、どこかに不安があるから、やはりそう言うて私に話しておられるのだ。それを聞かせて頂いてる私に対して、その時に思いました。例えこれが風呂の中であろうが、どこであろうが、私に皆さんがもの言いかけなさる時には、もうすでに神様が聞き耳を立てておられるという事実を、もう感じるなあと言うて、高橋さんに話しました。
皆さんが何気なしに私に言うておられるということは、もう取次者大坪ということを神様がもう認めておられるなということなのです。それは、例えば冗談であろうが、神様が、もう大坪に話しておるのじゃない、金光大神に話しておる様な話がそこにあっておるということ。これはいつの場合でもそう感じます。これがもう御結界だけじゃありません。どこででもそうです。いわゆる私に話しておられるそのことに対する返事を、その場で頂くところを見ると、神様が聞き通しに聞きござるなということを思いましたです。臍下丹田ですかね、私共が一心に定めると、こう言います。そういう稽古。
今日がいよいよ結婚式でございますが。今日、明日、今日は普通で言うならば、本客ということでございましょう。明日が皆さんの祝賀会ということになっとります。町の方はともかくとして、例えばお百姓をなさっている方達は、もういよいよ忙しい最中なのですね。取り入れがもう始まっている訳です。だから、取り入れの方が気にならん筈はありませんけれども、事それが神様事である場合です、それがすぱっと押しやっておられるということ。
でないとですね、皆さん一生経っても、やはり神様を中心にした働きは出来ませんよ。この稽古をして行かんと。やはり、自分の方を先に取ります。「今日は取り上げですけん御無礼します」「今日は忙しいけんでこれの方を先にします」、と言うて、いつまで経っても本当の、いわゆる「一心を出すとすぐに」と仰る一心を出したということにならんのです。
私はこの一心ということについてちょっとばかり驚きと言うか、成程それは当たり前だと思いますけれども、それがちょうど、小倉の富永さんから電話がかかって来た。もう御大祭、いろいろ何かある時には、応接間のお花を富永さんが受け持っておられます。それで今度の結婚式に当たっても、やはり応接間の方のお花だけはおかげを頂きたいという念願も持っておられました。ところが小倉から電話がかかって、「今日これから参りますからよろしくお願いします」という御取次であった。ああ、だからお里の、野口さんところがお里ですから。ああ、お里の方に用があってお見えられるなと、私はそう思っておった。ところが沢山のお花を持ってここに直接来られた。そしてしばらく活け、終わってしまってから、帰りますと言うて、そりけ野口さんところへ帰られると思った。
ところがお花を活けて小倉の方へ帰ると言われるのです。「あら、今日はこのお花のことだったのですか」と言ったら、ええ、実はこのお花のことのためにお花を買い、そして小倉からここまでお花を活けに来た。私は応接間をのぞいて見て、のぞいて見た瞬間、素晴らしいなあと思うたのです、花を見て。
それを聞く前に、いつも皆が、ああがようないか、こうがようないかと言うところがあるのですけれども。今度は一言も挟むところはない。出来ない程しに素晴らしゅう出来とる。ああ、今日の花は見事と。とにかくどうでしょうかね皆さん、わざわざ花を、そうかというて、富永さんが特別に上手ということではないです。最近稽古をしておられ、ようやく師匠の免許を取られたという程度です。だから、私どんが見たって、まだ本物じゃないなということを感ずるです、お花は。
それでも一心を立てておられるから、応接間だけは富永さんというとこなのです。だから、今言うようにお師匠さんの富永さんがしておられても、私共でも、それを「もちっと高く、低く」と言いたいところがあるわけです。ところが、今度の場合は一言も挟むところがなかった。まだその一心を立てて来ておられるとは知らないのですよ、私は。その前ですから。そして「只今から小倉へ帰ります」と、言われるのを聞いてから、一心ちゃ素晴らしいことだなあと思いました。今までかつてないような、見事な花が活け上げてあります。後で皆さん御覧下さい。
ようにだから、これは一心だけでなくて真を捧げたことになるのです。一心の真を捧げる。旅費も往復を言えば相当かかりましょう。お花もわざわざ小倉からあれだけのものを買うて見えられた。しかも小倉からここまでも、只そのお花いっぱいを活けるために見えておられる。一心の真を捧げるとはそういうことだと。
だからこれは分割的にですね、信心の稽古をさせて頂いて、様々な一心の真を捧げて頂くと同時に、今日高橋さんの例をとりました。あります、あのことも、このことも、用事はいっぱいあるけれども、こと神様のことというたら、あれも投げうって、これも捨ててかかっておられるその中に、不安はあるけれども、神様の御用を足せばというところの、おかげを頂かせて頂くところからです。成程神の用を足せば、氏子の用は神様が足して下さる。それは私共が足すことよりも、神様がなさって下さるということはもう抜け目がない、だからそういう神様の完璧なおかげを頂くためには、どうでも、それも忙しかろう、でも訳はあろうけれども、そういうのは、時にはそれをぽんと向こうへ蹴っておいて、神様の御用へ一心を向けさせて頂く稽古はどうでもなさらなければいけんです。
私が居らねば出来んからと言いよったら、一生私が居らねば出来んであります。すぐにおかげが受けられるということになってこないのです。一心ということと、只今、一心の真を捧げて、例えば小倉から合楽まで花を活けに見えられた。そういうことを私はすぐにおかげが頂かれる稽古、一心を出す稽古だと思うと同時に、高橋さんの行き方もこれはいよいよ有難い。それを繰り返し、繰り返ししておる内にです、そこには不安もなければ焦燥もない。どのような場合であっても、神様にお願いしとけば間違いないぞと言えれる信心が確立される訳であります。いわゆる神様を信ずることが段々出来られる訳であります。
もう一つ、これはいよいよ最後のもの、神様が信じられなければ、神様が信じられなければ一心を出すというても、一心を出そうと思うていても、神様が信じられないところに、二心にも三心にもなって、あの人にも願っとかにゃん、この人にも頼んどかなんということにもなります。
例えば、年頃の娘やら息子がおりますと、どうぞ私げのに都合よか嫁は居らんじゃろうかというて、あっちこっちに頼んでまわる人があります。さあ娘が居ると、ちょっと行き遅れたのが居るというと、見合い写真を沢山つくって、それこそあっちにもこっちにも、それこそ宣伝して配るようにして、どうぞよかとこがあったらと言うて沢山の人に頼む人があります。成程、親として、それもやむを得ないこともありましょうけれども、神様にお縋りしておればです、例えば写真をあっちもやり、こっちにもやって頼んでおるとしたら、それが、どこにでんわかったら、それこそ先の話ではないけれども、相談にくれて物事はかどらず、という結果になりましょう。
それを、例えば、私共のように、娘息子のようなんですけれども、誰も、「家の嫁が行き遅れておりますけんよろしうお願いしますばい」と言うて、見合い写真を一つつくる訳でもなければ、配るわけでもない。長女の場合に於いて然り、長男の場合に於いても同じ事。それこそ、もう一番この人でなければ出来ないというところにやって下さい、この人でなからなければならないという人を神様は貰い受けて下さることを私は有難いと思います。
だからね、そこに、あっちこっちに頼んでおけばよかりそうにあって、その頼み方は散漫なものであって、それはいよいよ本当の意味に於いておかげにはならん。例えばおかげの中にも、上・中・下があるとするならね、いわゆる中か下かです。けれども、神様に一心にお縋りして頂く場合はもう上です。
お酒でもそうでしょうが。並酒、二級酒より一級酒の方がよいでしょう。一級酒よりもやっぱり特級酒がよいでしょう。同じ腹一杯になるというても、只、丼ものなら丼もので腹一杯になるよりもです。やはり五百円なら五百円位出したちょっとした会席の方がよいでしょう。それよりも例えば、二千円も三千円もかけてからでも造った、お膳部ならお膳部をかけた方がまだ良いでしょうが皆さん。同じ腹一杯になることは同じでも皆さん、それだけ違うのです。 只、子供が結婚をするということは同じだけれども、最高の配偶
者を選んで下さる方が良いんじゃないですか皆さん。これは結婚だけのことではありません。食べることだけじゃありません。全てのおかげがそうなのです。
それにはです、一心という、「一心を出して」と仰るその一心が出せれる信心を頂かねばなりません。一心を出すと言うても、神様を信じられなければ、一心を出すことは出来ません。高橋さんに、「あなたは神様を疑っておりますか」と言えば、「いや神様を信じとります」と言われるけれども、言われるに違いありませんけれども。けれども、信じておると言うても、ちょっぴりいろんなことに不安がないではないということになります。ということが分かるでしょうが。それこそ、へそが上がったり下がったりしよる。
そこで、いよいよ神様を信じさせて頂く。おかげを頂けることのために、これはもう純粋なものなのです。けれども、先ず神様を信じたいと思うなら、先ず神様に信じられる私共にならして頂けるということは、これはいよいよ最後的なものなのです。
神様を信ずることが出来るということは有難いだけではない、神様から信じられる私共になろう。神様を信じたい。信じたいということは、神様に信じられる私共にならして頂くことに専念することは、神様を、神様から信じられる氏子。そこには神様を信じなければ、言わばおけないという心の状態が頂けてくるのであります。
どんな場合でも、大安心が出来る。どんな場合でも、心に平常心を持って行けるところがそうであります。大安心のおかげを頂くという人は、神様自身が、神様を私共が信じるということでなくて、神様からまた私共が、信じられる人の上に与えられるのが、その大安心だと思いますね。どうぞ。